クラシック音楽館をいくつか撮りためていて、そろそろ消さなければならないので、内容を記録するとともに、感想なども残しておこうかと思います。
クラシック音楽館で好きなのは、リハーサル風景やそのときの指揮者の指示などに触れられたり、指揮者や奏者のインタビューなどが聞けることです。
それもちょっと残せたらなぁと思っています。
4人のマエストロ クラシック音楽を語る
日本を代表する4人のマエストロが終結。
「芸術や音楽にしかなしえないことがある」広上淳一。コロナの中だからこそ語りたい広上淳一が呼び掛けて、4人のマエストロが駆け付けた。
新国立劇場の芸術監督として日本のオペラ界を牽引する大野和士。
伝説の指揮者カラヤンに学び楽譜の研究家としても世界的に名を馳せる高関健。
四人の中で最も若いマエストロ、クラシック界を次の世代に引き継ぐべく、音楽家の育成に情熱を注ぐ下野竜也。
4人のマエストロが指揮の神髄、クラシック界の未来について語る。
指揮者って何をする人?
ひ 指揮者って何する人なの。俺が聴くのもなんだけどさ。
し 小学校3年生になる長男がいるんですけど。何の仕事してる人なの?と聞かれて「適当に棒を振ってる」って答えたって。さすがに笑いましたね。
お 音に生命を与えるというか、それを楽譜の中から見つけ出すと。小節線を外して何が聞こえてくるかっていうのを示すというか。「田園」ってありますよね。最初は例外的にタイトルがついてて、音としては書いてあるんだけど、「明るい気持ちが芽生える」って書いてあるんですよね。音を出す専門家の彼らに、「ふわー」という気持ちになっていただかないと、生きた音にしてもらわないと。なんでここに休符があるかとわかってもらう。自分の中にどんどん落とし込む。譜面を具体的なイメージに持っていくというのが大事ですね。
(指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット 演奏:NHK交響楽団 の「田園」が流れる)
時代を超えて、作曲家が楽譜に込めた思いを紐解き、音としてよみがえらせるのが指揮者の仕事だ。日々膨大な楽譜と向き合い研究を続ける高関氏は海外の出版社にも一目置かれる楽譜研究者だ
た マーラーの交響曲だと楽譜が何種類も出たわけですよ。マーラー自身が演奏するたびに書き換えてきましたよね。その書き換えた結果が50年後に出て、さらに50年後に新しいのが出ています。どう変わったのかわからないので、自分でメモして、例えば7番だと、これが一番最初の楽譜ですけど、どうやって変わったかというのを色を変えて書き込んでいます。(1000か所に上る)間違っている音の修正、書き忘れ・省略の補足、そういったところ。なるべく作曲家の頭に浮かんだ音に近づけたいなという思いです。
研究するのは楽譜だけではない。作曲家自身の日記や手紙、当時の新聞記事などをたどっていく。「マーラーは5番のシンフォニーを描いたころに結婚したんですね。ちょうど初演と重なっているんですよ。スケルツォという明るい曲があるんですけど、そこが二人の出会いが表れているような気がします」「どれぐらい喜んだのかとか、そういうのが演奏にも反映できるかもしれないし、作曲家の行動がわかれば、自信をもって表現できます」
(指揮:高関健 演奏:藝大フィルハーモニア管弦楽団 マーラー:交響曲第5番)
た 興味本位ですね。できれば作曲家の脳の中まで入ってみたいという気持ちになります。一番最新の楽譜は研究の結果だけど、それを使わないと正しくないというわけではない。楽譜にすべて書かれているわけではない。
ひ 楽譜は台本なわけですから、指揮者という役者がどう演出し、演じていくかというのがありますね
頭のイメージを肉体を使って演奏家に伝えるのが指揮。その神髄とは。
お ベルディの仮面舞踏会ってありますよね。お互いに「私のことを愛しているの」と歌うアリアの部分。そのときにベルディのような天才な作曲家はそのときめきをそのまま音楽に表すんですよ。弦楽器が、ギラギラギラメラメラメラと理性を超える世界に行くというのを楽譜に書いてあるんですよね。それを見つけるんです。それを見つけたときは、理性を超えた動きが必然的に出てくるんです。カラヤンなんてね、シンフォニーとオペラを振っているときの手の繊細さが違うんですよね。曲によって変わるということですよね。それが作曲家とどういう会話をしているかということにかかわってきて、指揮者のボディランゲージにかかわってくるんですよね。
偉大な指揮者の指揮とは
(元ベルリンフィル・バイオリン奏者 グスタフ・ツィンマーマン)
カラヤンの指揮は魅力にあふれ、まるで魔術のようでした。
(元レニングラード・フィル バイオリン奏者 ヤッシャ・ミルキス)
[エフゲーニ・ムラヴィンスキーについて]彼はどんな細かい点も見逃しませんでした。彼の心を占めていたのは常に完璧を目指すということです。
(イスラエル・フィル 首席ホルン奏者(当時) ヤーコヴ・ミショリ)
[レナード・バーンスタインについて]もしも彼が泣いていれば、演奏者も楽器とともに泣いてしまうのです。彼が笑ってジョークを飛ばせば、やはり同じことをしてしまう。彼が発散するエネルギーの波が演奏者や歌手をとらえてしまうのです。
(NYフィル 首席クラリネット奏者(当時) スタンリー・ドラッカー)
[レナード・バーンスタインについて]あの人の人間性がいつも伝わってきました。
ひ オーラというのは信じない? バーンスタイン先生やカラヤン先生。譜面から生命を吹き込むというのはそうなんですが、そのためのオーラというのが。
お 確信の深さによるんでしょうね。
ひ 確信がないと人は疑うもんね。
お 音楽というのは非日常的な空間にどれだけ連れて行けるか。音の魔術があると思います。それに集中させてくれる指揮者にはついていきますよね。というのが指揮者と演奏者のあり方かな。恣意的なところがあると、ふっと引いてしまうというか。
自分のために作品を使っているかというのと、作品のために自分をdevoteしているかというのはね、オーケストラの演奏者は敏感だと思うんですよ。それが音となって表れて、聴衆につたわるんだと思います。それが共鳴が重なり合って、すごい音響が作り出されたとき、そこにいるマエストロはいないというか(いていない)。演奏会において、船頭役でなくて、作曲家と通じ合って、空気の柱でしかないという風に感じるときがあって、その時の方がオーケストラが波を作ってる。
た 自分がいない方がいい。オーラというのを信じているとできないかな。それを狙ってではなくて、ひたすら作品に集中しながら指揮をしているときに、突然受け止める側でそれを感じてくれるということなのかもしれませんね。
し 4人の中で一番若いので、大野さんがおっしゃった境地には入ってないんですけど、力も入りますし、最近、こう考え方を変えて、汗をかいて自分が燃えるんじゃなくて、自分のことがないときのほうがいい演奏になるというのはわかる気はします。自分の中の雑音みたいなものがないときのほうが、オーケストラが自然に聞こえてくるのが一番いい指揮なんだろうなと感じつつ
指揮者とオーケストラの間には時々特別なことが起きる。
1990年に札幌で開かれた若手育成のための音楽会。指導にあたったのはレナード・バーンスタイン。亡くなる3か月前次の世代に託そうとしていた。
バーンスタインという存在に触れたオーケストラが理性を超えた演奏を紡ぎ出す瞬間だ。
「アダージョをやりましょう。これから人間的で深い音楽を作りましょう。シューマニストの諸君たちリードに気を付けて!同にゅぶは聞こえないくらいの音で、このピアノが盛り上がってくるまで沈潜して、いつもポーズをとってそして激しくゆれるようにうたってゆっくりと!これは左手は強く、しかし右手は弱くというためのまさにぴったりの練習だ。これは最も大切な基本旋律でもあるのです。インフォーで振っているよ1小節ね」
シューマン:交響曲第2番第3楽章から
「ちがうそこはうたいあげて。バイオリンは美しいねいい仕事をしているよ。でも他の部分はマーラーのようにはじめはピアノじゃなくてはフォルテで弾いているけど、諸君が精いっぱい弾いているのはわかるんだけど、強いんだよ。ここの演奏は諸君の心から出てこなければ。それはブラームスがシューマンの元でそのすべてを学んだ素晴らしいウィーンの伝統なのです」
「もう少しだ。演奏以外の何かが見えてきたぞ。きれいだ、ピアノを持続して。うん、心の中から何か大きなものがでてきた。このメロディラインを続けて、もっとディミュニエンドで」
「シンフォニーは各セクションがバラバラであってはならないことはわかっているだろうけど、バイオリンが大変美しく弾いているので聴いてください。ここじゃオーボエが中心。その音に従ってみんながベースの音を決める。正確には高いGの音を伸ばして(どれくらいとは言わないけど感じてもらえれば)」
「これが音楽なんだよ!単に音をきざむことじゃないんだ」
「ついてきなさい!わたしのやるとおり」
「もし音楽家になりたいのならここから音楽家になりたいと思うことです。なぜならそれは難しいことだし、そう思うことから始めなければ。並の音楽家になることはたやすいことだし、うまく乗っかって音楽を演奏するだけなら、だれにだってできる。それは昼と夜ほどの違いがあります。いまやった5分間の中にそのことがすべて含まれています。それについては言葉はいりません」
パシフィック・ミュージック・フェスティバル
シューマン「交響曲第2番」第3楽章
指揮:レナード・バーンスタイン
1990年7月3日
2020年 新型コロナウィルスによりコンサートは次々と中止になった。指揮者は何を感じていたか。
た 2月20日ぐらいが指揮者最後で、3月ごろまではどうなっちゃうんだろうと思っていましたね。個人的には諦めて散歩してましたね。オーケストラも心配していました。見通しが立たなかったですからね。
お 3月の段階でコジ・ファン・トゥッテがキャンセルになりましたね。声を出すというのを基盤としているオペラとしては憂慮せねばと。いくつかキャンセルになりましたね。そこでもね、なんとか、音楽家として何をしうるのかというのはいつも考えていたんですね。
ひ 僕はね。わかんなくなっちゃったのよ。何かしなきゃならないと思って、連携するしかないだろうと。
し 広島交響楽団はなんとか4月5月6月は持ちこたえられるのかなというものと、これが続いたら厳しいという危機感はあったし、今も持ってます。その中でも広島の方々が寄付金を提供してくださったり。皆さんだってお苦しいのにと、支えになりました。そうすると自分たちの存在意義とか、これまでも助けてくれ助けてくれという割に、自分たちのオーケストラだったり職種は社会にどれだけ貢献していたんだろうと思うと、口をつぐんでしまいたくなるというのも正直ありました。立ち位置とかをまざまざと見せつけられたという感じはしました。
音楽はなぜあるのかを考え続けた1年間。そんな中、広上の心に響いた一曲がある。
バッハ「無伴奏バイオリン・パルティータ第2番」からサラバンド(奏者:ジェームズ・エーネス)
コンサートができない中、テレワーク合奏の動画。200万回を突破した。自粛ムードの中、安らぎを求める人の元に音楽が届いた。
夏には演奏による感染リスクを科学的に検証が行われた。リスクを最低限に抑えながら演奏会ができる提言を行った。
演奏会が再開して
し 6月の中旬だったんですけど、無観客で、インターネットで同時配信する。まずその練習場に人が集まっていたというのが感動でしたね。運命だったんですけど、見たことのないような距離をとってね。それでもみんなで集まることができたと。4楽章からやったんです。とにかくやりたい放題でやって。その瞬間、みんななんか顔がわーっとなって。感謝の気持ちでした。浮かれてはいけないとは思いましたし、距離があるから合わせにくいなんて話も出てきますけど、そんなことはいいんですよ。まずはみんなで集まれて、できて、ともしびを絶やさないことが大事だと。今までにないことでしたし、実際の演奏会ではお客様がまったくいらっしゃらないホールで。カメラの向こうに何人もいらっしゃるんだという気持ちでですね。
広島交響楽団ディスカバリー・シリーズ ベートーベン生誕250周年
ベートーベン:交響曲第5番「運命」第4楽章
指揮:下野竜也
管弦楽:広島交響楽団
2020年6月26日 無観客
し 運命が終わって音が切れたら、拍手が聞こえない。そのときにふと、自分たちは違う状況下に置かれているんだということを思いましたけど、本当にありがとうございましたと。この状況下で自分たちは生きていかなければならないと。現実を突きつけられましたけど、あの日のことを忘れないですよね。広響のメンバーは忘れてないですよね。
ひ 存在意義をもう一度確認できたという。嬉しかったね。僕は日本フィルをやらしてもらったのが最初で。すごいディスタンスで。聞こえないですよ。だけど、サントリーホールが喜んでいるというのを感じて。聞こえなくても音を出し、マスクをしようが歌を歌い、続けていくことが原動力になるので。なにもともあれやれるというのがこんなに素晴らしいことなのかと思ったんだけど
グリーグ:組曲「ホルベアの時代」から
指揮:広上淳一
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
2020年6月10日 無観客(4か月ぶりの演奏会は、弦楽器だけの特別編成で)
感想
グリーグ:組曲「ホルベアの時代」から
この曲って、「海に眠るダイヤモンド」のテーマ?曲にちょっと似てるなぁ。方向としては逆か
お しばらくてしてからお客様を入れて、お客様から拍手を受けて、楽員さんが言うのはね、こんなに拍手が痛いほど突き刺さったことはないっていうんですよ。聴衆が手を挙げてね。拍手をしてね。それは、素晴らしい瞬間だったと思いますね。
ベートーベン:交響曲第1番 第4楽章
指揮:大野 和士
管弦楽:東京都交響楽団
2020年7月12日 2000人のホールで、抽選で選ばれた600人が観客
お 本当に一生忘れないですね。それを経験したオーケストラはそれを経験していないオーケストラとは別のオーケストラ人生が始まったと思います。
た 演奏再開したときの感激というのはありましたね。味わえないような1年だった気がします。
ブルックナー:交響曲第8番 第4楽章(抜粋)
指揮:高関 健
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
2020年8月12日
ひ 改めて生で奏でる現場の喜びもあるけど、いつまでもリモートというわけにはいかないじゃないですか。その辺はどうですか。
お リモートによって、ツールが増えたという言い方はできますよね。ですから、生で演奏できなかったとしてもある程度コミュニケーションができる。それを知っているからこそ、生の良さを感じてもらっている。その人肌のおとというのかな。これを延長していくと歌の世界もそうだと思うんだけど、生の声というのを伝えることの尊さを一連の出来事が過ぎるにつれ、皆さんの中に深く根付いたと思いますね。
た クラシックを聴く人が増えていくのか減っていくのかというのはいろいろと言われていることだと思いますけど。ここにきていろいろなものが、選択の幅が広がっているじゃないですか。演奏会を生で聴く、配信でも聞くことができる、YouTubeでも見られるし。我々も古き良き時代の演奏をYouTubede見れてますよね。フルトヴェングラーだったりトスカニーニだったり。そういった時代になってきたので、聴く方が自由になってきたので、我々演奏する側がどういうことが必要なのかなというのをちょっと考えたりしますね。
し クラシック音楽を好きになるというのは、強要されたものではなかったと思うんですよね。小中のよさは、好きな科目も嫌いな科目もあるというのいいと思うんですよね。40人の中にクラシックが好きな人が一人かもしかしたら0かもしれない。音楽の授業がなくなってきて、それこそネットでも聞けるようになったけども、だれにとっても均等にあるということが大切だと思います。今後オーケストラを指揮してそういう活動をしたいということもありますけど、僕自身は、やはり体育館とかそういうところに行って、子供たちに一生に1回でもフルのオーケストラを体験してもらうという活動をしていくと、一人でも興味を持っていくれる子が出てくれたらなと思いますし、そういう活動をしていきます。
た 指導するという立場になってよかったことは、若い世代と話ができるということですよね。若い世代は、技術的には非常に優れていますからね。そういうところに、むしろ、「昔はこうだったんだよ」ということを大巨匠はこうだったということは伝えるようにしています。
お 教育的な観点からみた若い人をはぐくむということなんですけど。根底で信じているのはクラシックという言葉なんですよ。オペラというのは400年存在し続けています。コンサート会場で聴くことのできるレパートリーというのは300年。クラシックほどこれだけ続いているものはないんですよ。ベートーベンは250年聞き続けられているものはない。そういう意味でクラシックの聴衆も歴史と現代の傾向に比例して自然と増えてくるように思います。時代における増減はあるでしょうが、衰退することはないだろうと思っています。
「不要不急」に音楽が含まれているのは不適切だと思います。人間は感動する動物だからです。人間に生まれたからには、感動する権利があり、共有する動物なんです。
し この人には無駄でも、この人には必要不可欠というものがあるはずなんです。物事には多数派と少数派があり、少数派が捨てられている感じがします。しかし、そこを守る雰囲気を作れないかなと思います。
ひ 多様性をネガティブにとらえるのではなくて、良さを見つけ、そこをサポートすることがないと幸せになれません。人間は心を持った生き物です。ネガティブなものをどいうやって破壊していくかというのは、芸術や音楽でしかなしえないものだと思うんですよね。
マーラー:交響曲第2番「復活」 第5楽章(抜粋)
指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:ルツェルン祝祭管弦楽団
感想
私はアマチュア吹奏楽団でホルンを吹いていますが、コロナの影響で定期演奏会は延期になり、軒並み演奏機会を失いました。演奏活動に復活して、お客様から拍手をいただいたとき、こみあげてくるものがありました。アマチュアでもそうなのだから、プロの方はより一層、深く感じ入られたのではないかと思います。
そのときの喜びと感謝は年々消えていきますが、ときどき取り上げて思い出して、感謝をしなければならないなと思いました。コロナだけでなく、何があって、いつ演奏ができなくなるかわからないのですから。
しかし、最後に流れたマーラーの復活は、本当に素晴らしいなぁ。最近、なんか気づいたらアバド氏の演奏を聴いてたみたいなことが多いので、2025年はあえて多めに聞いてみたいなと思います。
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